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人類は衰退しました 1
田中ロミオ
イラスト 戸部淑
目次
妖精さんたちの、ちきゅう
妖精さんの、あけぼの
四月期報告
あとがき
妖精さんたちの、ちきゅう
ひどい揺れでした。
何十年、あるいは何百年か昔までは舗ほ装そうされていた道も、今は見る影もなく荒れ道になっており、左右から押し寄せる雑草や浮き出た血管のような根っこによって、いよいよ混こん沌とんの様相を呈しつつありました。
そんな道ではなくなろうとしている道を、トレーラーは無む頓とん着ちやくに踏ふみつぶして進んでいきます。
乗り心地は最悪の一言でした。
障害物を踏みしめるたびに、わずかな衝しよう撃げきは増幅され荷台に……ひいてはそこに木箱と一いつ緒しよに収まっているわたしにまで伝わってきます。
荷台での旅は優ゆう雅がなものと決めてかかった自分の愚おろかさが恨めしい。
せっかく花が咲き乱れる街道を旅しているというのに、お尻しりの痛みがひどくては楽しむどころではありません。
気分的にはドナドナに近く。
「素直に助手席に座っていれば……いや」
呟つぶやいて、すぐに却下します。助手席に座るということは、運転席に座っているキャラバン隊長さんとの否いや応おうもない会話にさらされることを意味します。人見知りで焦あせると空から回まわりするわたしにとって、それは神経を削る時間になるはずです。
心とお尻、削れて嬉うれしいのは後者でしょう。
とはいえ、さすがにたまりかねるものがあり、運転席に向かって声をかけます。
深呼吸ひとつを挟んで、
「……あとどのくらいでちゅきますか?」
?かんでしまったのですが、相手も気付かなかったようなので特に言い直さずにおきます。知らない人と話すのはやっぱり苦手。
「三、四時間かね。お天てん道とう様さまが隠れちまわなけりゃね」
巌いわおのような隊長さんは、振り向きもせずに答えます。
短くお礼を口にして、幌ほろの上に傘かさのように張り出した無ぶ骨こつな太陽電池モジュールに思いを馳はせます。
このトレーラーは燃料電池や太陽光などを併用する、今や稼か働どうしているだけでも貴重なハイブリッド・カーだと思われますが、常用しているエネルギー源は一種類だけなのかもです。
途と端たんに不安になってきました。
無料で同席させてもらっている以上、文句など言える筋合いではないのですが。
時速八キロほどの速度で、巨体はのろのろと進んでいきます。
「あと四時間……」
運転席から鼻歌が聞こえはじめます。
うららかな日ひ射ざしを浴びながら運転するのは気持ちよさそうです。
こちらはとうとうお尻しりの痛みに我が慢まんできなくなり、腰を持ち上げるのですが、
「立たない方がいい。それで落ちたヤツもいるから。ちなみにそいつタイヤに巻きこまれてゆっくり死んだけども」
即、元の位置に座ります。
せめて気を紛まぎらわせようと、路肩の向こうに自生している花々を眺めます。
視界の大半を占める黄色は菜の花。
油の材料になったり、漬け物になったりと便利な植物です。でも近くに寄るとアブラムシがびっしりついてたりして、昔のようにあの中に飛びこみたいとは思いません。乙おと女め心ごころは劣化するのです。ちょうど今、荷台の旅に辟へき易えきしているのと同様に。
臀でん部ぶの疼とう痛つうを棚上げするように、ぼんやりと風景を眺めていると、花畑からぴょこんと頭を出したものたちがいました。
「…………」
目があいました。
一秒くらいでしょうか?
逃げるように頭を引っこめてしまいます。
「……まあ」
?彼ら?を見たのは、子供の頃ころ以来になります。
あまりにも唐突で、一いつ瞬しゆんの出来事でしたが、見間違えるはずもありません。
ひと目見たら忘れられない姿をしています。
しくしくと持続するお尻の痛みも忘れ、わたしは笑っていました。
「こんなところにも住んでるんだ」
生息可能なありとあらゆる地域に住んでいると目されながらも、滅めつ多たに人前には姿を見せない彼らです。その不意の遭そう遇ぐうは、わたしの目に幸運の兆きざしのように映りました。
彼らとは友好的につきあっていかねばなりません。
それは《学がく舎しや》最後の卒業生として、わたしが負うべき義務のようなものでした。
荷台のへりによりかかり、?ほおにゆるい風を受けながら、?かみしめるように思い返してみます。
卒業式は三日前のこと。
会場は老ろう朽きゆう化かした講堂。
そんな危険な場所で式を執とり行おこなうなんて、と思われるでしょうが、ご安心を。
老朽化が進みすぎて、崩落するような天てん井じようも、倒とう壊かいするような石壁もほとんど残っておりませんから。
式場に入ると、砂さ礫れきひとつぶ見逃さず磨みがき上げられた床の上、十二の椅い子すがぽつんと寄り添う光景に出くわし、わたしたちはしばし立ち尽くしました。
胸元にさした生花から立ちのぼるひんやりとした香りのせいで、鼻の奥がジンと痺しびれてきます。この生花が萎しおれるまで。それがわたしたちに与えられた、学生としての最後の時間だと意識させられます。
卒業して故郷に帰るだけ。
そのことをわたしはごく軽く、淡々と受け止めていたつもりでした。ところが講堂に入るや否いなや、わたしの風景は突然に霞かすみがかったものへと変へん貌ぼうしてしまったのです。
それは身を貫く予感でした。ことがそれだけではすまないことを告げる。
式には教授陣の他ほかに、多数の列席者が見られました。
しかしその中に、卒業生の親族はほとんど見られません。わたしたちは学がく舎しやに通うために、遠い故郷をあとにして寮りよう生せい活かつをしていたのです。
列席者は学舎ゆかりの教育関係者がほとんどでした。
教授と列席者のどちらもが、卒業生の数より多いのです。
前後からのプレッシャーに挟まれつつ、式典ははじまりました。
式の前、わたしたち全員は「泣かない」宣言を発しました。
大勢の来らい賓ひんの前で泣くのは、いよいよ大人になろうというわたしたちには恥ずかしい行為に思われたのです。
卒業生は十二名しかいないのですから、式はすぐにすみそうなものでした。
ところが、教授陣は壇だん上じようにずらりと横並びに整列し、ひとりひとり卒業生を壇上に立たせ、ことさらゆったりとした態度でコメントを交えながら、ごくていねいに、生演奏されるショパンの別れの曲に乗り、卒業証書の授与を行いました。
全員が泣かされました。ありえない。
コメントの概がい要ようはシンプルだったんです。
教授陣のレジュメがあったとするなら「その生徒との思い出を語って聞かせる」の一言でこと足りるくらい。
それ以外が、技巧の極きわみと言えました。
語ご彙いの選択が適度に卑ひ怯きようで、多彩な修辞がさんざめき、表現の倒置は効果的に認識を揺さぶり、冷れい徹てつに写実したかと思えば、擬ぎ人じん化かした花か鳥ちよう風ふう月げつにあらゆる叙じよ情じようを演じさせ、センテンスの切れ目に浮かぶ静せい寂じやくが饒じよう舌ぜつに伝えるのも束つかの間ま、木ぼく訥とつさをもって畳たたみかける祝辞の輪唱は気付けば韻いん文ぶん学がくの余情をたたえ……それらは壇上に立つ卒業生の双眼が必要以上に潤うるむところで区切りよく軽やかに収しゆう斂れんしていくのです。
どう考えても狙ねらっています。
わたしは一分保もたずに撃げき沈ちんさせられましたが、他の卒業生も似たり寄ったりでした。
人前で感情を見せることを極きよく端たんに嫌いやがる友人Yでさえ、壇上から戻ってきた時には眼鏡めがねの奥で涙ぐんでいたほどです。
考えるに、さんざ苦労させられた生徒たちに対する、教授陣のひそかな仕返しでもあったのではないでしょうか。じゅうぶん、ありえる線だとわたしには思えます。
かような公的いじめが終わると、わたしたち全員の手に染しみひとつない白く輝かがやく卒業証書が収まっていました。
十年以上の時間をそこで過ごし、様々なことを学び、いろいろなことを体験したのは、この一枚の紙切れをもらうためでした。しかし証書の羽根のような軽さと似て、なんとも呆あつ気けなく終わってしまったという印象です。
わたしたちは萎しおれた生花を記念品としてもらった写真集に挟んで押し花にしました。写真も今では庶しよ民みんのものではなくなっています。ぱらぱらとめくれば当時をいくらでも呼び起こせるというのに、この時、早くも思い出は儚はかなさを帯びはじめています。
物もの寂さびしさは、そのまま講堂で開催されたお別れ会で、弾はじけました。
語りきれないからこそ混こん沌とんなのであり、そのことに逆らう気もない記録者といたしましては、構成要素のみの記載にとどめさせていただきたいと思います。
それは主に、以下のようなもので成り立っていました。
運びこまれる見たこともないごちそう・床を転がる色とりどりのフルーツ・誰だれかのお手製らしき連装クラッカー・弾け飛ぶシャンパンのコルク・即興のピアノ演奏・声を張り上げて叫ぶ卒業生・泣く卒業生・笑う卒業生・空から回まわりしすぎてキャラが上うわ滑すべりしてしまった恥ずかしい卒業生(わたしです)・十分ほどしてトイレから戻ってきた友人Yの赤く腫はれた目め尻じり・酒を酌くみ交わす年配のゲスト・左右から酒をつがれ休まず飲まされる男子卒業生・ジャズトランペットの掠かすれる音ね色いろ・泣きながらわたしの手を取ってくる見知らぬおばあさま・不ふ揃ぞろいの合唱・老人たちも卒業生もいっしょくたに流す涙・深夜十二時を告げて重なる長針と短針──
学がく舎しやとは、人類最後の教育機関でした。
かつての大学、かつての文化協会、かつての民間団体……それらの統合機関として学舎が生まれたのは、もう百年以上も昔の話だそうです。
そういった教育機関の併合は、人口の加速度的な減少にともない、世界各地で見られた光景でした。
人口が減れば子供も減ります。
生徒数が不足するようになりました。
そこで他の教育機関と併合し、学区や分野を拡大する……という流れが多発するようになりました。
あとは坂道です。
五十年前の段階ですでに、学校のある街に世界中から子供が集まって、寄宿舎暮らしをしながら教育を受けるのは当たり前の光景となっていました。
わたしたち十二名の卒業をもって、人類最後の教育機関と言われた学がく舎しやも閉校を迎えました。
これから教育とは、親から子に受け継がれるものに回帰していくのでしょう。
そして今、わたしは故郷への道程をお尻しりを痛めながら辿たどっています。
行く手に大きな影が立ちふさがりました。
クスノキの大木。この木には幼心にも焼きついていて、見覚えがありました。
《里》と外界を分けている、目印のような木なのです。
繁はん茂もする野草の中に、思い出したように民家の廃はい墟きよが点在するばかりのこの一帯では、ひときわ目立つ存在です。
里からクスノキまで、子供の足で約三時間の道程。里の子供たちは皆、遠出の目標としてこの木を目指したのです。
このトレーラーなら、うまくすればあと二時間といったところでしょうか。
荷物に背を預け、体から力を抜きました。
里では新しい暮らしが待っています。
卒業と同時に里での就職を決めたわたしは、自ら進んでその過か酷こくな道に身を投じることを決意しました。
学舎で十年間以上学び続けることで得た、文化人類学をはじめとする様々な知識と技術を活用すべき時が来たのです。ひとりの学究の徒としてはまだまだ未熟なわたしです。その困難な道程は若い力を否いや応おうもなく必要とするのであり、妥だ協きようも譲じよう歩ほも諦てい念ねんも怠たい惰だも許さず、潔けつ癖ぺきなまでの探求心がなければとうてい頂きに手をかけることは望めないはずなのです。しかしわたしには、若き研究者としての自らをまっとうしたいという野望があります。若さもあります。実現するためのチャンスも手にしています。もはや邁まい進しんすることだけが、わたしが選択する唯一の道だとさえ思えます。
でも楽に野望を実現できるに越したことはないんですけど。
横道に入った途と端たん、伝わってくる振動がぴたりと止まります。
クスノキの里に入ったのでしょう。さすがに人の住んでいる土地は、地面がならされています。
「う?ん?」
濡ぬれタオルで目を覆おおい、木箱の隙すき間まに無理やり寝ていたわたしは、揺れの程度だけでそれを悟さとりました。
かえって体力を浪費してしまったようで、身を起こす気力も目を開く余力も湧わいてきません。
手探りで荷台のへりを探し、腕の力を使って上体を起こします。
「う???ん???」
尺しやく取とり虫むしのようにくねりながら、ようやくへりにすがりつく姿勢になると、そこで喘あえぐように息を吐き出します。すでに揺れすぎて胃がひっくり返っており、酸すっぱいものが常に喉のど元もとまでせり上がってきております。
懸けん垂すいの要領で顔を持ち上げ、あごだけをへりに乗せて、ようやく目を開きました。
トレーラーはちょうど民家の合間を縫ぬうようにして進んでいるところでした。
手を伸ばせば届く距きよ離りにもう民家の柵さくが見えます。里の住宅街を貫くメインストリートも、この巨体が通るにはいささか狭いようです。
ああ、いよいよ恋しい地面と再会する時が近づいている。
いくぶん気力を回復させ、視線を巡らせて周辺を確かめました。
状態の良い民家が寄り添うようにして建っていて、後付けされたブリキの煙突のいくつかが、もうもうと煙を吐き出しています。調理中なのでしょう。
人の入っている家は、だいたいペンキで色鮮やかなパステル調に塗られているのですぐにわかります。いくら状態が良いとはいえ、築数百年という老ろう朽きゆう物件も多く。塗装なしではとてもではありませんが、酸性雨に侵しん蝕しよくされた外壁は見られたものではないのです。
こうしたパステル・ハウスは今の時代、人々にとって原風景とも言うべき文化になっています。
眼前に広がる風景が、連れん鎖さ的てきに蘇そ生せいしていく幼少の記き憶おくと、面おも白しろいように一致していきます。
里で唯一、ピンク色に塗りたくられた民家。
絵本やゲーム目当てに通い詰めていた公民館。
ふんわりとした乳白色の家は、お菓子づくりが趣しゆ味みのおばあさんが住んでいて、子供が材料を持って訪ねていくといろいろと作ってくれるのです。
ていねいな運転で進むトレーラーが向かう先は、広場です。
広場は建物のいくつかを潰つぶして作った円形の更さら地ちです。そちらに目線を転じると、大勢の人がすでに待機しているのが見えました。
「わあ」
途端に恥ずかしくなり、首を引っこめます。
昔の知り合いと再会することに、異様な羞しゆう恥ちを感じていました。ただでさえ、大勢の前で話すのは大の苦手です。個別に、できたら個別にご挨あい拶さつをすませたい……。しかしキャラバンは人々の注目を浴び続け、里の広場まで巨体を進めて停車してしまいます。
荷下ろしをするであろう後部ステップから見えない場所を求め、木箱と側面へりが作るスペースに身を滑すべらせます。この場所はグッド。体育座りをして頭を低めれば、わたしの姿は隠れるはず。ほとぼりが冷めるまで、ここにいることに決定です。
しかし世の中それほど甘くないようで。キュコキュコというクランクを回す金属音とともに、思わせぶりに側面へりが下がっていったのです。ちょうど視線を遮さえぎるために潜ひそんでいた部分。物資を受け取るため集まっていた民衆の視線は、体育座りで登場したわたしにいっせいに突き刺さりました。
最前列で待っていたオジサンの口から、パイプがぽろりと落下します。
このトレーラーは後方だけではなく側面も開くタイプのものだったようです。
見覚えがある顔の中年女性が、訝いぶかしげに唸うなります。こちらが向こうを記き憶おくしているように、向こうもこちらを──
「あんた確か?」
わたしは膝ひざ頭がしらに、静かに顔を伏せました。
広場で思うがままに恥をかいたわたしは、摩ま耗もうしきった身心を引きずるようにして自宅のドアに手をかけました。
「ただいま戻りました……おじいさん?」
薄うす暗ぐらい家の奥から、記憶と変わりない白衣姿の祖父が猟りよう銃じゆうを手に出てきました。ずかずかと歩いてくる様子に老いは感じられず、内心ほっと安あん堵どです。
「おお、やっと戻ったのか」
老人にしては大柄な祖父は、女としてはかなり高い位置にあるわたしの頭に手を置きました。
「ふむ、縦方向に育っとる」
「……年月が経たちましたから」
ちなみにこの数年で、背丈はつくしのように伸びました。もうこれ以上はちょっと困るくらいに……。
「血色も良し。人にん参じんは?」
「……嫌いなままです」
祖父はふんと鼻を鳴らし、
「なんだ、中身は成長はしとらんのか?」
「してると思います……たぶん」
「ま、入りなさい。ちょうど食事にしようと思っていてな」
「え? これから狩りを?」
手にした猟銃を見て尋ねます。
「こんな遅くから行くわけがなかろう。これはちょっと改造して攻こう撃げき力りよくを上げていただけだ」
祖父は銃が好きです。
「キャラバンに同乗して来たのかね?」
「はい」
トラブルについては語らずにおきます。
「ああ、それとおじいさん。聞いていると思いますけど、わたしもおじいさんと同じ調ちよう停てい官かんをすることになってですね……」
「うまいクレソンがあるぞ。フライにもパンにもよく合う」
成長を訴えるわたしの声は、祖父の耳を無む慈じ悲ひに通過していきました。
野菜と干し肉のスープ、揚げ魚・野菜・ピクルスといった各種の具材、それらを挟むための切れ目入り丸パンを入れたバスケットが、食卓に並んでいます。
すべて祖父が用意したものです。
祖父は長年ひとり暮らしをしているので、料理は達者なのです。
丸焼きだとか薫くん製せい肉にくだとかの大味な料理を好むのですが、ときおり、繊せん細さいな味わいのスープを作ってくれます。ン年ぶりの懐なつかしい匂におい。
ピクルス多めの、自分好みのサンドイッチをせっせと組み立てながら、対トイ面メンに座った祖父と話します。
「そうか、学校制度もとうとう終わりか」
「ええ、お別れ会に関係者の方がたくさん来てくれて……びっくりしました」
「そんなもんだ。うちのところも畳たたむ時は関係各位が集まって……なんだ、店を開く癖くせは直らずじまいか?」
わたしの前に組み立てたサンドイッチが五つ並んでいます。
「食べながら作るのは落ち着かないので……いけませんか?」
「いや、構わないがね」
こういうのを作りだすと、つい夢中になってしまうのです。
友人は内職癖へき、家族は開店癖、と呼ぶ、わたしの手癖です。
「そんな食えるのかね?」
「いえ、無理です。さすがに」
悪びれずに言います。
「アホ」
祖父の手がふたつを強奪していきます。
「丈は伸びたが、相変わらず弱々しい生きもののままだな」
「文明人と言ってください」
「元だ、元。文明なんてもうほとんど残っとらん」
「そういえば太陽光発電のトレーラーってはじめて乗りました」
「あれな。速度も馬力もないし、壊こわれたらもう直せんだろうな」
「幸い、止まらずに戻ってこれました」
「キャラバンの連中はいい玩具おもちやをたくさん持ってる。おまえもあっちに就職したら良かったんだ。楽しそうだ」
「あ、いえ……肉体労働は無理ですし」
祖父は思い出したように表情を改めます。
「本当にうちで働くのかね? べつに無理に継がなくてもいい仕事だが」
「そのつもりです。せっかく学位まで取ったわけですし、事務所だって維持してるじゃないですか。そういう、公式に認められた居場所があるのはいいと思うんですよ」
「物好きなやつだな。よりによって調ちよう停てい官かんとは」
「わたし向きの仕事だと思うんですよ」
「ほう、理由は?」
「……畑仕事より楽かなーと」
久方ぶりの団らんに、ついつい本音が炸さく裂れつしました。
「そんな理由でか……?」
さすがに祖父が呆あきれた声で言います。
きりりとした目線を向けて朗々と告げてやります。
「わたしの身体からだが弱いことはおじいさんもご存じでしょう?」
「いや、おまえは今楽をしたいからと言ったぞ」
……言いましたっけ?
「いや、こんな時代ですから、農学や畜産の実習が基礎教育課程に含まれるわけですが……あれはたいへん辛つろうございました。そこに行くと、調停官は老人にもまっとうできる仕事なわけですから肉体的にはなんら問題なかろうと」
肉親相手だとまったく緊きん張ちようしないで話せます。
「……孫娘が変な性格になって戻ってきた」
「んま」
「だいたいおまえは身体が弱いのではなく、単に気力に乏とぼしいだけだ」
「はあ」
「楽ばかりしてると、年としを取ってからふんばりがきかなくなるぞ」
「はあ」
「……まあひと月も過ぎてそう思っていられるなら大物だな」
「きつい仕事なんでしょうか?」
もちろん調停官の資格を取る際、わたしはこれらの仕事について下調べを行いました。結果として、自活するための農作業その他の労働に比べ、とても楽な内容であることを突きとめたのですが……実態は違ったりするのでしょうか?
そんな疑問に、祖父は一言で応じます。
「人による」
首をかしげます。はて、そんな過か酷こくな労働項目があったでしょうか?
「まあ一度?彼ら?に振り回されてみるんだな、だめ孫よ」
「ひどいおっしゃりよう」
「まあとりあえずだ。明日は事務所まで来なさい。おまえのための場所を作らんとな」
そういうことになりました。
十ン年ぶりの朝を迎えると、すでに八時。
「いけない……!」
惰だ眠みんもいいところです。旅の疲れが蓄積していたに違いありません。というか、疲れないはずがないのです、ええい。
慌あわてて部屋を飛び出し、キッチンの様子をうかがいます。
祖父が朝食を採とっていました。
「なんだ、騒そう々ぞうしい」
「あ……おはよう、ございます……」
「うむ、おはよう」
と食事を続けます。平然と。
これはおかしい。異なことでした。わたしは言葉を失い、何かの間違いが発見されるのではないかといった不安とともに、しばし立ち尽くしました。
「……何しとる」
「え、だって……」
早くに両親を亡くしたわたしは、幼い頃ころから祖父と暮らしてきました。祖父の教育方針はスパルタ式。寝坊して朝食に遅れようものなら、いつも脳天に拳げん固こが落ちてきたものです。それがないとは、どういうことでしょうか? 忘れてしまったのでしょうか? 午後六時という門限を破っても、言いつけられた家事をひとつ忘れても、欠かさず拳こぶしをもらいました。忘れるだなんてことが、あるのかどうか……。
「私はそろそろ出るぞ。おまえはどうするんだ? 今日は事務所に顔出しをするのではなかったのか?」
「あ、はい……そのつもりです」
わたしの席には、すでに食事が用意されていました。この風景も久方ぶりです。ありがたくいただくことにします。
「で、どうするね? 一いつ緒しよに出るのか。それとも今日は休むか?」
「や、休んでしまっても良いのでしょうか?」
それはスパルタでは許されないことなのでは?
当然といった顔で、こう返されます。
「べつに昨日の今日で慌あわてて働かずとも良いだろう。意志が弱いことは昨夜聞いたしな。顔色も良くない。まあ荷台に座って長時間揺られてくれば、体調が崩れるのも当然だ。聞けばおまえは三角に座ったまままるで荷物のように微動だにしなかったそうだが──」
いやーん、と叫びたくなります。
さすがは交易ルートのはじっこに位置するド田舎いなか、クスノキの里。個人が気軽に使える通信器機もない時代だというのに、情報はアナログ方式(風のうわさ)の分ぶん際ざいで一いつ瞬しゆんで伝でん播ぱしてしまったのです。
「たたた体調はへへへ平気なんですが……」ここで動揺を鎮ちん圧あつし「病弱なんですよ、深しん窓そうで薄はつ幸こうで失意の令れい嬢じようなんです。だから今日は重役出勤をします」
言い切ってやりましたよ。
「…………」
いけない、可か哀わい想そうな人を見る目で見られている。
「……な、何か問題でも?」
「いや。シンソウでハッコウのゴレイジョウのために、窓まど際ぎわで落おち葉ばでも数える仕事があるといいんだがな」
「ありませんか」
「探しておこう」
「でも、サナトリウム文学みたいでいいでしょう?」
「確かに外がい見けんだけなら、そんな感じがないこともないな」
わたしはまさに、そういう外見をしております。
人見知りする性格がさらなる拍車を掛け、わたしという存在は?寡か黙もくで清せい楚そなご令嬢?なるニッチを完全で埋うめてしまったほどです。今どきの子供はわりとたくましいですから、わたしが得た生態的地位は不動のものでした。
もっとも親しくなるとさすがに本性はばれてしまうようで、辛しん辣らつな友人Yなどは臆おく面めんもなく「歩く詐さ欺ぎ」という評価をわたしに下したものです。
「まあ構わないがな」茶を飲み干しながら祖父が言います。「私はもう出る。おまえはあとから、来ることができそうだったらきなさい」
「はい、じゃあそうします」
「場所はまだ覚えているな?」
「ええと、あのホットケーキのような形の建物ですよね……?」
「そうだ。今日は昼まではそこにいるから、来る気があるのならそれまでに来るといい。食器は水につけておいてくれ」
さっと白衣をひっかけ、さっさと出て行ってしまいます。
取り残されたようなわたしは、ぽかんと呆あつ気けに取られてしまいました。
結局、寝坊の体たい罰ばつはありませんでした。
幼少期、無む賞しよう必ひつ罰ばつ(功績は一切誉ほめず、罪悪は必ず罰する悪あしき教育方針)の精神で飼育されてきたわたしとしては、なんとも落ち着かないものがあります。
実に容よう赦しやのない祖父でした。
それがどうでしょう、このゆるさと来たら!
決して体罰を受けたいわけではないのですが……。
なんともスッキリしない気分のまま、朝食を終えます。
「さて、どうしましょうか」
慌あわてて出所するのも躊躇ためらわれます。胸元のもやもやを呑のみこんでしまえるまで、なんとなくワンクッションを置きたい気分。
とりあえず張った水に食器をつけて、狭い家の中を探検してみることにしました。
懐なつかしい我が家。
同じなようでいて、壁の染しみや装飾など、細かく記き憶おくと違ってきている我が家。
過去と現在を照らしあわせる、楽しいひととき。
あぜ道をぬって歩くこと十五分。
この円形闘とう技ぎ場じようめいた形をした大きな建物は、クスノキ総合文化センターです。
国連調停理事会という組織に所属する祖父は、このホットケーキを何枚も重ねたように見える建物で、趣しゆ味みや趣味や趣味や執務に取り組んでいます。三・三・三・一くらいの分配で。
遠い異国にあるコロセウム同様、上部が一部倒とう壊かいして欠けておりますが、お気になさらず。
これでも傷いたみの少ないということで手て頃ごろに再利用されている、レアな大型建築物なのです。
文化センターというのは建物に元からあった正式名称ですね。
きっと地域住民に対し、文化を啓けい蒙もうする目的で使用されていたに違いなく。
その広さと部屋数の多さから、今では事務所棟として利用されております。大学のラボやら研究施設やら事業所やら宗教法人やら倉庫やらなんやらかんやら。実に様々な用途に利用されて参りました。と申しましても、すし詰めになっていたのも五十年以上前のことだそうですが。
現在はほとんどが空き部屋か、代表者がいなくなってそのまま放置された状態で、このあたりの子供にとって良い遊び場所となっていました。
「お邪じや魔ましまぁす」